「地震で自宅が被害を受け、生活を立て直すためのお金が必要です。私の企業型DCから一部を引き出すことはできませんか?」
大きな災害が起きたとき、従業員からこのような質問を受ける会社があるかもしれません。
2026年7月28日、熊本県でマグニチュード7.1、最大震度7の「令和8年熊本地震」が発生しました。
その後、8月13日から千葉県で「令和8年8月千葉豪雨」が発生し、8月27日からは石川県でも記録的な大雨となり、羽咋市、志賀町、宝達志水町、中能登町に災害救助法が適用されました。
この1か月だけでも、地震や豪雨による三つの大きな災害が相次いでいます。
災害は、いつ、どこで起こるかわかりません。
被災直後には、住まいの修理、家財や車の買い替え、避難中の生活費など、まとまったお金が必要になることがあります。
病気になったときも、治療費や収入減少への不安が生まれます。
自分の名義で積み立てられている企業型DCの資産を見て、
「こういうときこそ使えないのか」
と考えるのは自然なことです。
結論からお伝えすると、現在の企業型DCやiDeCoは、被災したことや病気になったことだけを理由に、自由に中途引出しできる制度ではありません。
一定の障害状態になった場合の障害給付金や、厳しい要件を満たした場合の脱退一時金などはありますが、
「災害で生活再建資金が必要」「治療費を支払いたい」
という事情だけで引き出せるわけではないのです。
一方、2026年に公表された税制改正要望や、厚生労働省の有識者懇談会で紹介された業界要望では、被災、介護、病気など、やむを得ない事情がある場合の中途引出しについて見直しを求める意見が示されています。
今回は、企業型DCの中途引出しに関する現在のルールと改正要望を確認しながら、企業型DCが従業員の「もしも」にどう向き合う制度なのかを考えます。
企業型DCは預金ではない
企業型DCの資産を原則60歳まで引き出せないのは、単に使い勝手が悪いからではありません。
確定拠出年金法は、企業型DCやiDeCoを、高齢期の所得を確保するための制度と位置付けています。
事業主掛金が給与として課税されないこと、加入者掛金が所得控除の対象になること、運用益に通常の運用中の税金がかからないことなどの税制上の扱いも、老後のために長期間積み立てる制度であることが前提です。
いつでも自由に引き出せる預金と同じ仕組みにすれば、住宅費、教育費、日々の生活費などに使われ、老後を迎える前に資産がなくなる可能性があります。
「引き出せない」という制限は、急な支出に対応しにくいという弱点である一方、老後資産を途中で使わずに残すための仕組みでもあります。
したがって、企業型DCを従業員へ説明するときは、税制上のメリットや運用だけでなく、
「原則として60歳まで使えないお金である」
と明確に伝える必要があります。
自分名義の資産だから必要なときに使える、と従業員が思い込んだまま加入することは避けなければなりません。
災害や病気だけでは企業型DCを中途引出しできない
厚生労働省は、確定拠出年金の給付について、障害給付金と死亡一時金を除き、原則として60歳以降に受け取る制度だと説明しています。
病気やけがによって一定以上の障害状態になり、原則として初診日から1年6か月を経過した場合などには、60歳前でも障害給付金を請求できることがあります。
ただし、単に入院した、治療費が必要になった、休職して収入が減ったというだけで受け取れるものではありません。
法令で定められた障害状態に該当する必要があります。
脱退一時金もありますが、自由な解約制度ではありません。
例えば、個人型DCの脱退一時金は、60歳未満であること、企業型DCの加入者ではないこと、iDeCoに加入できないこと、通算の掛金拠出期間が5年以下または資産額が25万円以下であること、資格喪失から2年以内であることなど、複数の要件を全て満たす必要があります。
企業型DCから直接脱退一時金を請求する場合も、加入者等でないこと、資産額が1万5,000円以下であることなどの要件があり、請求できる期間も限られます。
別の要件によって個人型DCの脱退一時金へ進む場合もありますが、いずれにしても
「必要になったので一部だけ引き出す」
という仕組みではありません。
そのため、被災後も会社に在籍し、企業型DCの加入者である従業員が、住宅の修理費を理由に資産の一部を引き出すことは、現在の一般的な制度ではできません。
病気で休職している従業員についても、企業型DCの加入資格や法令上の給付要件を満たしていなければ同様です。
過去には震災復興のための特例が設けられたことも
災害時の中途引出しについては、過去に全く例がなかったわけではありません。
東日本大震災後の復興特区制度では、一定の条件を満たす被災者が、地域の復興事業への出資や参加などにDC資産を活用できるよう、脱退一時金の支給要件を緩和する特例が設けられました。
ただし、これは対象地域や使い道などが定められた特別な措置であり、全国で災害が起きるたびに当然に利用できる一般制度ではありません。
この特例の規定も、期限の到来により2021年3月に削除されています。
過去に特例があったことと、現在、被災者なら誰でも企業型DCを引き出せることは分けて考える必要があります。
この特例からも、老後資産を守る原則と、非常時の柔軟性をどう両立させるかが以前から課題だったことがわかります。
令和9年度税制改正要望で支給要件の緩和が要求されている
2026年7月、生命保険協会は「令和9年度税制改正に関する要望」を公表し、企業型DCにおける退職時の中途引出し、つまり脱退一時金の支給要件を緩和するよう求めました。
この要望が想定しているのは、誰でも自由に引き出せる仕組みではありません。
外国籍の加入者が国外へ転居する場合や、加入者が被災したことなどによって厚生年金の適用事業所で働けなくなった場合に、一定の要件を満たせば一時金を受け取れるようにする内容です。
また、2026年6月の厚生労働省「確定拠出年金制度の運用改善等に関する有識者懇談会」では、全国銀行協会の要望として、介護や病気による療養など、やむを得ない事情がある場合の中途引出しを可能にするニーズが紹介されました。
追徴課税など一定の負担を課した上で脱退一時金を認める制度の検討も挙げられています。
投資信託協会も、令和8年度税制改正要望において、iDeCoについて、災害などやむを得ない事情がある場合に限った中途引出しを要望していました。
ここで注意したいのは、いずれも業界団体から示された**「要望」**や検討課題であり、すでに制度改正が決まったわけではないことです。
中途引出しを広げればよいという単純な問題ではない
熊本の地震や千葉・石川の豪雨の被害を考えれば、非常時に自分の資産を使いたいという要望には切実な理由があります。
一方、中途引出しを広く認めれば、老後資産の減少につながります。
若いときに引き出した金額だけでなく、その後に得られる可能性のある運用収益も失われるため、将来への影響は小さくありません。
税制上の公平性も整理する必要があります。
税負担を軽減しながら積み立てた資産を老後前に受け取る場合、どのように課税するのか。
対象地域、被害や療養の程度、引出しの上限額や回数をどう決めるのか。
必要な人が使える制度にしながら、安易な引出しによって老後資産が失われないようにする。
この二つをどう両立するかが、中途引出しを考える際の中心的な論点です。
企業型DCだけでは従業員の「もしも」に備えられない
企業型DCの中途引出しが制限されているからといって、制度として不十分だと決めつけるのも適切ではありません。
企業型DCが担うのは、主に老後という長期の備えです。
問題は、老後資産である企業型DCに、災害、病気、失業など、全ての備えを期待することです。
従業員の将来を支えるには、目的の異なる備えを分けて考える必要があります。
- 当面の生活費や災害時の支出に備える預貯金
- 大きな損失に備える保険や公的支援
- 会社の慶弔見舞金、災害見舞金、貸付制度など
- 60歳以降の生活に備える企業型DCやiDeCo
会社が従業員の生活上のリスクを全て負うことはできません。
ただし、自社の支援制度と、公的制度や個人で備える範囲を整理しておくことはできます。
災害時の連絡体制、給与や休業の取り扱い、見舞金制度、利用できる公的支援の案内などは、BCPや人事制度の問題でもあります。
企業型DCの導入をきっかけに、老後だけでなく、働いている間の「もしも」への備えも確認することが大切です。
金融教育では、まず「お金の役割」を伝えることが重要
企業型DCの金融教育というと、投資信託の選び方やリスク・リターンの説明が中心になりがちです。
しかし、従業員が最初に理解したいのは、
「このお金は、いつ、何のために使えるのか」
という点です。
災害や病気に備えて、すぐ使える資金まで企業型DCへ回してしまえば、いざというときに手元のお金が不足します。
反対に、老後まで使わない資金を全て普通預金に置くことが、その人に合うとも限りません。
今使う生活資金、近い将来に使うお金、予期しない出来事に備えるお金、老後のために長く積み立てるお金。
それぞれの役割を分け、その上で企業型DCの掛金や運用商品を考える必要があります。
これは、金融教育を担う人が、金融商品を売るための教育ではありません。
従業員が自分の家計と将来を整理し、無理のない範囲で判断できるようにするための教育です。
経営者には、企業型DCが担える範囲と、会社の福利厚生・災害対応との関係を、経営者に伝わる言葉で説明する。
従業員には、
「このお金は老後用なので、災害時でも原則として使えない」
「緊急時のお金は別に準備する必要がある」
と従業員に伝わる言葉で説明する。
制度のメリットだけでなく、使えない場面まで伝えることが、企業型DCを正しく導入するために必要です。
企業型DC導入前に確認しておきたい5つのこと
企業型DCを導入する会社は、中途引出しについて次の5点を確認しておきたいところです。
1. 原則60歳まで引き出せないことを説明しているか。
「自分の資産」という説明だけでは不十分です。
いつ受け取れるのか、例外はどのような場合かを伝えます。
2. 手元資金とのバランスも説明しているか。
従業員が掛金を選ぶ場合、税制上の効果だけでなく、生活防衛資金を残した上で無理のない金額を考える必要があります。
3. 会社の災害時支援制度を整理しているか。
見舞金、貸付、特別休暇などの制度がある場合は、対象者、申請先、必要書類を確認します。
制度がなければ、自社の規模と継続可能性に合う支援を検討します。
4. 被災した従業員への案内窓口を決めているか。
企業型DCだけでなく、健康保険、雇用保険、自治体の支援など、従業員が確認すべき制度は複数あります。
会社が全てを判断するのではなく、適切な問い合わせ先へつなげられる状態を整えます。
5. 今後の制度改正を決定前に案内していないか。
税制改正要望や審議会での議論は、将来の方向性を考える材料になります。
しかし、正式に法令が成立し、施行日や要件が決まるまでは、現在の制度と分けて説明する必要があります。
引き出せないことまで理解して、企業型DCを選ぶ
企業型DCは、災害や病気でも自由に引き出せる貯蓄制度ではありません。
現在は、一定の障害状態に該当した場合の障害給付金や、厳しい要件を満たした場合の脱退一時金などを除き、原則として60歳まで資産を受け取れません。
被災や病気を理由とした中途引出しの緩和は要望されていますが、まだ決定した制度ではありません。
一方で、引き出せないからこそ、老後資産を長期間残しやすいという企業型DCの役割があります。
大切なのは、全面的に認めるか、今のままにするかという二者択一ではありません。
老後資産を守りながら、生活再建が必要な人にどこまで柔軟性を認めるのか。
今後の議論を見ていく必要があります。
会社に求められるのは、将来の制度改正を待つことだけではありません。
企業型DCが備えるのは老後資金であり、災害や病気に備える資金は別に必要であることを従業員へ伝える。
そして、会社の災害対応や福利厚生、公的支援への案内も含め、従業員が困ったときに情報へアクセスできる状態を整えることです。
ライフビジョナ総合研究所では、企業型DCの税制上のメリットだけでなく、原則60歳まで引き出せないことや、従業員の家計との関係まで伝えた上で制度設計することを重視しています。
企業型DCだけで従業員の将来や「もしも」の全てに備えることはできません。
だからこそ、退職金制度、福利厚生、金融教育を切り離さず、その会社と従業員に必要な備えを整理するところから始めることが大切です。

